森組稽古場日誌(9月26日) :武田茂

今日26日は、けいこ場での最後の稽古日。二人の新人が明日から巡業に旅立ちます。
10年後には座の屋台骨になるだろう二人に期待や、僕が経験から学んであまり間違ってはいないと思うことを、この場を借りて取り留めもなく語ろうと思いつきました。どうぞ聞き流してください。

舞台に立てば先輩後輩などない、自分の思い、感性を遠慮なく表現に高めてもらいたい。
少し脇道にはずれますが、新聞の書評に”森が生きていること、海が生きていること、川が生きていることが感覚できることが大切。“と確かこのように書いてあったと思うのですが、これはまさしく「森は生きて
いる」の世界です。

中村桂子著「科学者が人間であること」。これこそ新人の感性に期待することなのだが、僕は1月の精として森は生きている側で生活している。それに対して女王は自然は思い通りにコントロールできて好きに変えることができると思い込んでいる。
そこで書評に戻るのだが、森は生きていると歌っているから感覚的には身近だが、日常生活では新緑がきれいとは言うが、森は生きているとは言わない。水が澄んで底まで見えるとは言うが、せせらぎが生きているとも言わない。どちらかというと、女王に近く、自然を支配下に置きそこに利便性を見る生活にどっぷりつかっている。生きているとは,ヒトの命と同等の命を持っていることだそうです。

1月の精とせせらぎの日常には、
”せせらぎさん元気がないがどうしたね?ずっと上にダムができてね、私の命なんざ、風前の灯火さね“
なんて会話がやり取りされてるかもしれない。
回を重ねていくと慢心してしまう、そこへ、言葉にみずみずしい感受性を持つ新人にガツンとやってもらいたいのだ。
基本をみっちり鍛えること。声と体はもちろんのこと、言葉への感受性を磨くこと。声に興味を持つこと、90歳を超えてハイCの出てくるテノールのオペラアリアを完璧に歌うイタリア人がいる。
茂山千作,清元のしず太夫、文楽の住大夫など。オペラ歌手の歌を手当たり次第に聞きまくること。
後、落語は面白いよ。円生、志ん生、金馬は聞いてほしい。「中村仲蔵」「淀五郎」なんて聞かないとね。

はい、終わり。

武田

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